バブル経済絶頂期、街は活気にあふれていた。
このお店も大変忙しく、繁盛店だった。
今まで1年9カ月、僕は仕事をしてきた。
もちろん大した仕事は出来ないが、それでもド素人ではなかった。
ところが……
やることなす事、指摘され怒られる。
まず、包丁の使い方。
「包丁は押して切るもんちがうんや~!!」
まず、基本がなってなかった。
基本を教えてくれた。
すると、今まで上手く切れなかった物が、面白いようにきれいに切れるようになった。
きざみ物をするとき、「細くようきらへんのやったら、太くてもええから
おんなじ太さで切ってみ~。」
なるほど。
そういった指摘をたくさん受け、みるみる上達していった。
スポーツで例えると、良いコーチについてもらっているようなものだろうか。
ある日のこと、宴会があり、懐石料理を順番に作っては運んでいた。
僕が段取りをしていると、「おまえは懐石の順番(出し方)も知らんのか~!」
と、怒られる。
前のお店では、宴会が大変多いお店だったので、懐石の出し方くらい
分かっているつもりだった。
ところが、
このお店は本格的。
本当の、懐石料理を教えられた。
前のお店では、宴会料理とでも呼ぶのだろうか?
内容も、今まで見たことのないような食材を使い、
その中でも、前菜や八寸、お椀物は素晴らしかった。
何を隠そう、この店の料理長は、大阪では、いや、全国に名の通るお店で
修業をされた方で、テレビや雑誌にもよく取り上げられていた○○さんの
下で働いていた方だった。
歳は30代前半で若く、このお店の社長の息子さんだったので、
みな、「兄さん」と、呼んだ。
姫路で最初にランチブームを引き起こしたのも、この人。
お店の客さんに(ひさとのお客さん)、「大阪、京都で修業してたん?」
と、よく言われます。
僕は、大阪、京都のお店で働いた経験がありません、が、
実はこの頃、大阪、京都のお店にも負けないくらいのお店が
姫路にあったのです。
文字道理、兄さんは「なにわがえり」
姫路でそろわない食材でも、大阪の八百屋さんに頼めばなんでもそろう。
こんなこともあった。
発注ミスで、どうしても今夜の献立に欠かせない食材が足りなくなった。
大阪の八百屋さんに電話すると、番頭さんが、
「今から、新快速に乗って持っていきます!夕方にはつけると思います!!」
天下の台所、なにわの商売人達には驚かされる事が多かった。
職人さんも、よく大阪から来てた。
今でいう派遣みたいなもので、1週間とか1カ月間、お店を助けてもらう
ために、「部屋」と、呼ばれる所からや、お店から職人さんを借りるシステム。
腕の良い職人さん達と一緒に働く事で、僕自身も勉強になった。
兄さんは、よく大阪での修業時代の話をしてくれた。
その中で、一番印象に残っているのは、
道頓堀に架かる橋の上で、板前が横に並び、カツラむきをする。
一番先に川についたものが勝ち!
そんな遊びをしてたそうだ。
姫路の街も捨てたもんじゃない。
でも、いつかは大阪で働きたいと思うようになった16歳の頃でした。
続く…
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